弓矢は旧石器時代には近東の民族により使用され、新石器時代になると世界中の民族に普及しています。民族により長弓・短弓の使用、単一弓(丸木弓)・合成弓(木竹骨角革などを合わせて作る)というような工夫がなされていきました。日本の弓は単一弓から湾曲弓の合成弓(木と竹)に発達しました。

文献としては古事記や日本書紀といった奈良時代に編纂された書物が最も古いものですが、これらの書物から推察しますと、威儀の装いとして弓矢が重い位置をしめていたことが解ります。

4、5世紀頃になると中国文化の影響を受けて、日本固有の武道思想が形成されてきます。
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、前時代の公家の華美柔弱な生活の反省として、質実剛健の武士の道を教えました。将軍の来訪をもてなす饗応も椀飯(おうばん)に梅干、海鼠(なまこ)、酢が用いられました。幕府は弓馬の修練をもって、技術を通じての精神の到達点として、武士の道義を確立しました。この時代に大的、円物、草鹿等の様式が整えられました。鎌倉時代から室町時代に至る間は弓術においては技術革新の時代でした。

後醍醐天皇(1288〜1339)のとき源家に伝承された糾法は小笠原貞宗、常興によって集大成され弓馬術礼法の規準が確立されました。射術としても室町時代には日置流の祖、日置弾正正次が実戦の射として武士の間に普及、この射法は吉田重賢に引き継がれ、出雲派、雪荷派が分派し、雪荷より道雪が分派しました。出雲派より印西派、大蔵派等が分派し、弓術の俊才がこの日置の教えより分派していきました。傍系として竹林坊如成が竹林派を成立し、後に尾張、紀州に定着し盛んに行われるようになります。

十五世紀から十七世紀の室町から徳川初期の百五十年の間です。このようななか徳川幕府でも八代将軍吉宗のときに、小笠原平兵衛常春に命じて騎射、歩射の古儀を集成させました。諸藩でも諸流派を庇護し、その形を明治の時代に伝えました。