小笠原流
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小笠原家は初代小笠原長清に始まる清和源氏の家系です。小笠原長清は応保2年(1162年)甲州に生まれ、父は加賀美二郎遠光、母は和田義盛の娘です。最近までは甲府郊外に小笠原村がありましたが、現在は南アルプス市となっています。 小笠原姓は、高倉帝より賜ったといわれ、今日小笠原姓を名乗る家は全てこの長清に発しています。小笠原長清は26才のときに源頼朝の『糾方』(弓馬術礼法)師範となり、その後道統は長男の長経に伝えられました。 長経は源実朝の師範となっています。長経には二人の男子が居りました。長男の長忠と次男の清経です。 長男の長忠の子孫は、信州松本の城主となり、次男清経は伊豆の国の守護職となり伊豆の赤沢に住むようになります。 弓馬術礼法は長男の長忠が伝承し、小笠原一族の惣領家となります。次男の清経の子孫も長忠家の人達と一緒に鎌倉幕府に仕え、いつも極めて近い間柄として両家一体となって行動をしていました。特に長忠家7代の小笠原貞宗と清経家7代の小笠原常興は、共に後醍醐天皇に仕えて、武家の定まった方式として、 『修身論』と『体用論』をまとめました。これが小笠原弓馬術礼法の基本となっています。 この時から惣領家では三階菱の紋を、清経家では三階菱の中に十字を入れた紋を使うようになりました。その後も両家は密接な関係を保ちながら戦国の世を戦い抜いてきましたが、清経家の17代経直は、 惣領家の長時、貞慶親子から永禄5年(1562年)11月に弓馬術礼法の道統を承継しました。 徳川時代に入ると、惣領家の人達は豊前小倉の城主、肥前唐津の城主、越前勝山の城主として明治に至りますが、経直は、 徳川家康に招かれ、徳川秀忠の弓馬術礼法師範となり、御維新まで高家として幕府の弓馬術礼法の師範を務めています。また20代貞政は享保9年(1724年)8代将軍吉宗の命により新儀式としての流鏑馬を制定し、高田馬場で度々行なっています。 近代に入り、28代小笠原清務は将軍の目代となり、文久2年和宮御降嫁の御用掛も務めました。 明治12年には吹上御苑で流鏑馬を行うほか、上野公園等でもしばしば天覧に供しました。 明治13年東京神田に弓馬術礼法小笠原教場を開き一般に公開し、東京女子師範学校、 女子学習院等にて作法を教授いたしました。 明治の文明開化の中で、従来の礼式をいかに近代生活に適応させ、新しい学校教育制度の中に取り入れさせることにどんなに力を尽くしたかがうかがわれます。 29代小笠原清明は明治神宮御鎮座にあたり、大正9年流鏑馬を執行、また鶴岡八幡宮をはじめ宮崎神宮、 日光東照宮、笠間稲荷神社等多くの神社の流鏑馬を復興しました。 大正デモクラシーの社会の中で、伝統的な小笠原の流儀を守り抜き、学校礼法の普及にも力を注ぎました。この間関東大震災、太平洋戦争の戦災にも会い教場は焼失いたしましたが、伝来の書物等を身をもって守り現在に残されております。 そして先代宗家の30代小笠原清信は5月3日の賀茂御祖神社の流鏑馬をはじめとして、明治神宮、橿原神宮、大宮八幡宮、靖国神社、鶴岡八幡宮、加茂別雷神社、住吉大社、日光東照宮、鷲原八幡宮、平塚八幡宮、宮崎神宮、 宮城県護国神社等の多くの神社において、流鏑馬、また大的式、百々手式、草鹿式等を奉仕し、 ニュ−ジ−ランド、フランス、メキシコ等の海外での流鏑馬を執行しました。また、商業主義により歪められつつある小笠原流礼法について、伝統を守り、科学の裏づけのある正しい小笠原流の礼法の普及にも力を注ぎました。 小笠原の弓馬術礼法を教えることで生計を立てることは禁じられています。これは経済を考えて流儀を教えると、おのずから弟子との妥協が起こって、流儀の品位が卑しきなることを戒めていると同時に、弟子をふやすために自然に無理ができてくることを考えてのことです。明治大学で教育心理学を教え、一方で先祖より受け継いだ流儀の継承という両面の生活を送っていました。

昭和40年代から小笠原流を商売とするコンサルの登場が見受けられるようになりました。商業主義の中で『小笠原流礼法』が指定役務「礼法の教授」として第三者により商標登録されましたが、平成14年小笠原教場に名義変更されましたが、今なお商業目的で、小笠原流礼法を語る方が後を絶ちません。 『小笠原流礼法』は登録商標です。弓馬術礼法小笠原教場以外の人がこの名称を使用して礼法を教えることは出来ません。