流鏑馬は、やばせむま、とも解し、また、流鏑と書くのは鏑を飛ばすということで、馬を駆けさせながら鏑を射る意味を文字化したと言われています。

流鏑馬の名が最も古く見えるのは、今から約900年前の藤原明衡の『新猿楽記』です。
当時の流鏑馬は朝廷の警護にあたっていた、滝口、随身などが射手となったもので、公家の催しである騎射として平安時代に盛んに行なわれていました。

武家としての流鏑馬の始めは『平治物語』に見える平清盛の伏見稲荷神社の流鏑馬であると言われていますが、信州諏訪社では既に武家主催で行なわれていたと伝えられています。

源氏の道統としての流鏑馬は、清和源氏の始祖である六孫王経基が清和天皇の教えを受けたもので、これが源氏の騎射として伝承され、宮中の大儀としての儀式には必ず行なわれました。

 
 

鎌倉に幕府が開かれてから、武家の儀式として流鏑馬が盛んに行なわれたことが、『吾妻鏡』に多く見られます。その多くは鶴岡八幡宮の流鏑馬が中心であり、現在でも9月16日放生会の日に行なわれています。

この流鏑馬も吉野朝以来一時衰微しましたが、徳川時代に入り徳川吉宗の命により小笠原流20代貞政は享保9年(1724年)奥勤めの武士たちに流鏑馬、笠懸の稽古をつけ、そして古儀の他に、新しい流鏑馬を、小笠原家に伝わる書類を参照して制定しました。

この後、将軍の誕生・病気平癒の祈願には、度々高田の馬場などで流鏑馬が行われました。
射手の服装は立烏帽子、綾藺笠を被り、鎧直垂に射小手を着け、行騰・太刀を履き、箙を負い弓矢を持ちます。
この服装はあげ装束ともいわれ鎌倉時代の武士の狩装束です。
約250メートルの馬場を馬を駆けさせながら、3つの的を次々に射る勇壮な行事です。

今日では春日大社・塩竃神社・浅間神社等の神社での神事にその形を伝えているものと、江戸幕府で庇護された小笠原流、熊本細川藩で維持した武田流が執行する流鏑馬が主なものとなっています。