三月初めの巳の日、古代中国では、水辺に出て災厄を払う禊の風習があり、秦の昭王のときに行事として定着し、晋の代に風流の行事として発展、禊事の後に詩を詠じました。
 曲水の宴は、曲がりくねって流れる水のほとりで、上流から流れてくる杯が、自分の前を通り過ぎぬうちに詩歌を詠ずるもので、杯を取って酒を飲み、さらに下流に流すものです。わが国では、『日本書紀』に「顕宗天皇の元年の条 三月の上巳に、後苑に幸して、曲水の宴きこしめす」とあります。

一方、中国では魏の時代より三月三日となったことが『宋書』に記されているといいます。また、わが国古来の行事としては、春の農耕に先立ち、 物忌みや祓いの行事が行なわれ、上巳の風習と禊の行事が結びついて、巳の日祓いと称して形代(身代わり)としてつくった人形で身体を撫で、穢れを移して川や海へ流す、流し雛が行なわれました。この祓いの道具としての人形が貴族の子女の間で雛遊びとなったものです。禊は本来海や川へ入って身を清めることですが、身体の穢れを人形に移し、これを海や川に流して災厄を払う行事へと移りました。やがて穢祓いとしての意味は薄れ、女子の健やかな成長を祝う式日へと変化したのです。今日のような段飾りとなったのは元禄のころからです。現在も京都の城南宮等において、曲水の宴が行なわれています。

雛祭りは今日では段飾りが主となっています。江戸時代文化文政のころには、民間でも 、最高の生活様式は宮中にあるとして内裏雛、左右両大臣、三人官女、五人囃子等を飾るようになり、さらに女の子の節句ということで、下の方の段には嫁入り道具をミニチュア化したものを揃えるようになりました。このような観賞用の段飾りの雛とは別に、古来からの禊としての習慣を受け継いだ変わり雛を用意して、穢れを流す流し雛も各地に残っています。

内裏雛の飾り方は、平面では正中(真ん中)に男雛を描き、次席にあたる、こちらから見て右側に女雛を描くことができましたが、同じ段に置くとなると、上座、下座の関係から右側に男雛、左側に女雛になります。この考え方は《天子北辰にありて南面して東に座す》の史実から発しており、左大臣、右大臣、官女の本酌(長柄の銚子)、次酌の位置、左近の桜、右近の橘の並べ方にも及んでいます。本膳道具では配膳のあり方を教え、行器(千段巻の丸い器で供の者の弁当入れ)と貝桶(六角または八角につくり、貝を入れる。蛤は貞操堅固の象徴)の違い、飾る場所について実践での教育となったようです。三月三日を過ぎますと、なるべく早く丁寧に片付けます。