古代中国では、五月初めの午の日に蓬でつくった人形や虎を間口に掛け、菖蒲を浸した酒を飲むなど、災厄を払う行事が行なわれたようです。陰暦の五月は気温も上がり、食物も腐りやすくなるため、薬草の力によって病気から身を守ろうとする習俗が発生したのでしょう。
 わが国では『日本書紀』の推古天皇十九年(611)条に、「十九年の夏五月の五日に 、菟田野に薬獵す」とあり、薬狩と称して薬草を競い採ったもので、鹿茸を主とした狩りが行なわれました。
天平時代には、元正上皇が「昔は五日の節には、常に菖蒲をもってかずらとしていたのに今は行なわれていない。今後は菖蒲の髪飾りをしないものは宮中に入れないことにする」という詔を出されています。また、薬玉といって、五色の糸で菖蒲、艾(蓬)を貫いたもの、または糸で編んだ橘の実の中に薬草を入れたものがあります。後には菖蒲、蓬をなでしこ、あじさい等そのときの花で飾りました。これを九月九日の重陽の節句まで御帳にかけ、邪気を払い、疫を払うことを行ないました。そして中国の故実にならい、菖蒲葺くといって、菖蒲、蓬を軒に挟むことにより、毒気を払いました。さらには平安中期より菖蒲の枕といって、端午の夜に菖蒲を枕の下に敷いて寝て邪気を払う風習もありました。このように菖蒲に関する効能が大きいことから、わが国でも「菖蒲の節句」としてかなり古くから認識されていたことがわかります。

また、端午の節会では騎射が行なわれ、左右近衛府の武人たちによって催されました。 このときにも菖蒲草を冠にかざしました。また、走馬、騎射、鶏合等の勝負がないときには、菖蒲の根を合わせて勝負を決するともいわれました。江戸幕府では、この日は大名等の総登城の日で重要な式日であり、染帷子長袴を着て祝儀が行なわれました。大奥では柏餅で祝い、御三家等からは粽が献じられました。菖蒲と尚武の音が同じであることから、元禄期には男児のための節句として定着します。徳川時代には武士の心を忘れないようにということで、具足とか槍、刀、弓矢等を飾ったのが始まりで、また旗指物を飾ったのが、幡と呼ばれる幟となり、さらには吹き流しになり、鯉のぼりに変化しました。逆流をさかのぼる勢いがよく、まな板に乗れば静かに包丁を待つという鯉の潔さが愛され、空に泳がせることが考えられたものと思われます。庭先の棒の先に矢車をさして幟紐に鯉を結びます。地方によっては男子が誕生するたびに鯉を増やしていくというような習慣もあるようです。鯉のぼりの立て方に緋鯉が上だとか真鯉が上だとかという原則はありません。俗言にいう「鯉(恋) に上下の隔てなし」が本当のところのようです。

この日、菖蒲湯に入るという習慣がありますが、花菖蒲(アヤメ科)には香りがありません。本来の菖蒲はアヤメ草(白菖、サトイモ科)といい、菖蒲根はもとより葉も風呂に入れますと、精油が溶け、肌を刺激し血行をよくすることから、神経痛、肩凝りに効くといわれています。また粽や柏餅を食べるというならわしもありますが、鎧櫃の前にお神酒と水で洗った米を供えたのが始まりで、のちに米の団子を供えるようになりました。粽は古くは茅の葉で巻いたところからその名があるといいますが、米の粉を練って蒸すときに餅がくっつかないように木の葉で巻いたものです。菖蒲の葉で巻くのは、殺菌作用も備わっているためです。